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御津町商工会

㊵ 熊野神社 (藤)

95-1.jpg現在地には、菅原道真公を祀る天満宮がありました。明治の初年神仏分離令によって、竜獄山にあった熊野権現と仲仙寺奥の院が分かれて、伊弉冊尊を合祀する現在の熊野神社となりました。
平安時代の末に、三河の国守であった藤原俊成卿は、蒲形、竹谷2か所の荘園を熊野山に寄進したので、別当堪快の管理となりました。娘婿の行快は、この地を譲られたのですが、その娘が薩摩守平忠度の妻となり、平氏の領地になりました。平氏没落の後、行快は、源頼朝と従兄弟であったよしみで、嘆願をした結果、再び熊野の領地になったことが『吾妻鏡』に書かれています。
熊野の勢力は、三河に上陸して、一方は下佐脇を中心として四方に進み、一方は、国坂峠を越して、金割村に熊野権現を祀り、さらに山を越えて、熊野権現を祀る今の御油神社を造営して進出しました。
源義朝の臣安達新三郎は、保元の乱に当たり、この地に陣屋を設け、熊野権現に祈願したと伝えられ、義朝横死の後は、金割村に帰農したといわれます。また後年、弁慶が国分寺の鐘を持ってきたところ、鐘が国分寺が恋しいと鳴るので、怒って叩き割ったため、中山邑の村名が鐘破村になったという話があり、慶長検地帳にも鐘破の文字が見えます。
明治初年までは、奥の院とともに熊野権現を祀り、1日、10日、18日には皇室、将軍家、氏子の安全を祈願し崇敬の的でした。現在の境内には、秋葉社や、国坂道路の開設に尽力した安達貞治翁の顕彰碑があります。

熊野神社の藤(町指定天然記念物)
熊野神社の横を流れる熊野川の立木に絡んで藤の古木があります。
樹齢等ははっきりしませんが、巨竜昇天の趣きがあり、大切に保存したいものです。

【治山とゴルフ場】昭和30年代に国坂の五井山頂まで観光道路が開かれ、その後電話の中継所が設置されました。
五井山から流れ落ちる御津川の水源地付近は急峻で、大雨の時には崖崩れ等が度々起こったので、急傾斜対策としてダムを設け、流路工を行なって急流の調節をしました。また熊野川も同様に危険でしたので、ダムと流路工の整備によって治水の効果をあげています。
御堂山の裏山には、ゴルフ場が造成され、山深いこの地域も状況が大きく変りました。
場内には、入会山の碑や、人の彫ったと思われる㊀の記号がある大きな岩などがあります。

       みと歴史散歩❷古道に沿って 平成12年2月発行より