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御津町商工会

⑳ 平壌池

75.jpg新宮山から茂松城跡に連なる山なみを背にした段丘の麓に、面積55㌃余の池があります。この池は、日清戦争における平壊での戦勝を記念して、広石の渡辺鍾造翁が巨額の私財を投じ、広石住民挙げての協力によつて出来たもので、平壊池と名づけ、田の灌漑に利用されました。
池とともに水路も当然築造されました。郷中の田へ導水するには、前面に横たわる高台が大きな障害で、やむなく二筋の隧道を掘り、これを水路としました。―つは150mもう―つは120m程の長さで、人がようやく通れる位の広さです。工事は、磁石と水平器をたよりに、専ら人力により両口から掘り進み、あるいは竪坑を掘って排土を図るなどして完成しました。なお、広島の人で当時マンガン鉱採掘のため在村した大谷為之助(後に新宮山の登り口で暑寒亭と称する小店を営む)を雇って、技術面を補ったそうです。
いずれにせよ、土木機械のない明治の中ごろにこのような大土木工事がなされたことは驚異に値するといわれています。この池と水路の竣工によって、昭和43年豊川用水が通水するまでの70年間、広石の農家は大きな恵みを受けてきたのです。
今は流れぬ池の水面に水草が繁り、その西岸に明治31年に建てられた造成記念碑があります。碑面には築造の由来等が記され、題額は陸軍少将土屋光春です。
また、池のかたわらに「従是西平壊池」の道標があり、表面下方に「測量師宝飯郡書記清水市三郎、地理講究員惣代竹本林作御津村長柴田勝誠」、裏面に「明治32年夏池所有主渡辺錯造建置」とあります。この碑は新宮山南麓から移されたものです。

       みと歴史散歩❷古道に沿って 平成12年2月発行より