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御津町商工会

㉒ 穴観音古墳

77-1.jpg穴観音古墳(町指定史跡)
別名を岩屋観音ともいい、伝説によりますと武烈天皇(499~506)のとき全国に火の雨が降るという噂がでて、避難用に造られたもの、ということです。全国的に火穴塚といわれるものと軌を一にする横穴式石室の円墳です。地元豊沢地区の言い伝えでは、大正以前から石室が開口していたとのことです。いつごろからか明確でありませんが、石室最奥部には石造の観音像が祀られていて、地元の信仰対象になっています。
この古墳は、平成元年3月に発掘調査した結果、外護列石を巡らす3段築造の円墳であることが判明しました。1段目と2段目の外護列石は、高さ1~1.2m、3段目(最上段)は高さ10~20㎝(築造時は40~50㎝と推定される)が検出され、それぞれほぼ垂直に石積みされており、当古墳の直径は20m高さは5mと推定されます。
このような古墳は、東海地方では初めてのもので、全国的にも大変珍しいとされています。
築造年代は、推定の手がかりとなる出士遺物がきわめて少ないため確定できませんが、内部主体の石室(三河地方では屈指の石室)や墳丘施設(外護列石)から推定して、7世紀初めごろと考えられています。
築造時を想像すると、その姿は壮観なもので、埋葬者はこの地方においてきわめて大きな力を持つ権力者であったと思われます。
ところで、開運、健康、諸願成就のご利益で名高い穴観音様は「願いごとがかなえられれば何々を奉納します」と約束した物は必ず差し上げねばならないそうで、やむを得ない時は紙片に氏名・奉納物名を書いたものを置いてくればよろしいとのことです。  

※古墳の形態
古墳の基本形は〇(円墳)と□(方墳)で、□+□((前方後方墳)、□+〇(前方後円墳)の四者が多いのです。
弥生時代の首長墓は□が主流でした。ごくまれに〇があります。一つの墓地の主流になることはありません。
〇が主流になるのは古墳早期(3世紀後半)にはいってからで、同時に□+〇が出現します。つまり、□+〇は円形墓の発展形です。
この時は、方形墓とその発展形である□+□も同時に存在しました。関東・東北では初期の王墓として□+□があり、まもなく□+〇に交替して主流となります。近畿では古墳早期以降、円形墓が主流で、七世紀に大王墓が方形墓にかわるまで続きます。   参考文献 小学館刊「日本歴史館」より

       みと歴史散歩❷古道に沿って 平成12年2月発行より