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御津町商工会

⑱ 『万葉遺跡安礼の崎』

82.png「いづくにか船泊てすらむ安礼の崎、こぎたみゆきし棚無し小舟」                                                                        高市連黒人
これは万葉集にのせられたものでありまして引馬野の歌の次に出ております。大宝2年(702)持統上皇が参河国にみゆきされたとき作られたものといわれています。昨年7月31日当町中央公民館において久曽神愛大学長のご講演があり、この歌についてはその大意 は「どのあたりに今時分、舟を停泊しておることであろうか。先ほどむこうのあの安礼の崎を、こぎたみですから、漕ぎまわて沖の方へ出て行った、あの船棚のない小さな舟は」というご説明でありました。作者は大恩寺山の山頂から安礼の崎の方をみて詠じたものと思われるとのことです。万葉学者久松博士は、引馬野と安礼の崎は将来有力な反証があらわれない限り、御津町にあったものと定めておきたいと発言され現在御津町所在説が最有力となっている次第です。下佐脇出身の宇井伯寿博士(印度哲学の権威)が持っておられた延享3年(1746)古図には安礼の崎ということが明記されてあったとのことで、これを今の地形に当てはめますと、むかしの音羽川は永久橋辺から新田の氏神様の南の方へ出ておりましたから、今の音羽川の河口左岸からこの氏神様の西南あたりに相当します。
安礼の崎という名はどうして起こったかといいますと、大恩寺や御堂山に近い方の海は山が風を防いでくれるので穏やかで常になぎの状態を呈しており、泙野という地名も的を射ていますが、音羽川河口附近は山から離れた地点にあり、風が吹き荒れて海も騒ぎ立てるので荒れの崎となり、また、騒ぐことから佐脇という地名ともなったとのことです。このなぎと荒れの対象は長年三河湾をとびまわり漁船を扱ってこられた経験から、古老石黒寿一氏も実際その通りであると立証してくれました。

          広報みと❺文化財 昭和55年5月15日号より