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御津町商工会

⑰ 『俠客雲風亀吉の墓』

81.png広沢虎造の浪曲に 旅行けば駿河の路に茶の香り名代なる東海道名所戸跡の多いとこ中に知られる羽衣の松と並んでその名を残す海道一の親分は清水港の次郎長とて―、の節に引続いての台詞に「東海道にゃいい親分がいるぜ、三州寺津間之助、西尾の治助、宝飯郡の雲風亀吉、御油の玉屋の源六なんてったら、すごいからな」「ははあ、くわしいなお前さんは、今海道一の親分てえと誰でしょうね」「ないね」…。という石松代参のくだりがあります。この次郎長と常に敵対していたのが、甲斐の国の黒駒の勝蔵という貸元でした。富士川あたりで双方の大血闘があったのち勝蔵は元治元年(1864)6月6日今の小坂井町平井にいた旧知の雲風亀吉の宅へきていたとき、清水方の大政と形原の斧八を大将とした40余名に襲われ、乾児の働きで勝蔵と亀吉は危く難をのがれましたがこれは有名な話です。その12月27日には逆に斧八親分に対する仕返しが行われ今度は平井側が勝利を収めました。
この雲風亀吉は平井に生まれ若いとき江戸の清見潟という関取の部屋に入門し、後には幕下十両まで進みそのときの相撲名が雲風というのでした。相撲を廃して俠客となったのちも、この名を用いていました。やがて世は明治維新を迎えまして、幕軍を追討する官軍の中には名古屋藩2000名も加わっていましたが、藩は正規軍の温存を図るため闘争力に富んだ博徒部隊を起用することに決し、藩に招かれて雲風亀吉の率いる集義一番隊、近藤実左衛門率いる集義2番隊が編成され出勤したのでした。藩は亀吉の出身地に因んで平井という姓を与え士分に取立てました。彼らは長岡、会津方面でめざましい武功を立てて明治元年12月、7ヵ月振りに凱旋し功により士族に列せられました。のち、清水の次郎長と同じ年の明治26年3月24日66才でなくなりました。(今の遺族は平井あい子さんです)一世を風靡した大俠客もここに葬られ白川のせせらぎを梵唄の声と観じつつ静かに眠っているように思います。

          広報みと❺文化財 昭和55年4月15日号より