小規模事業者の活躍を応援します。

御津町商工会

★『佐脇刀祢太夫の墓』 (6-②)

80-1.png下佐脇の馬市場というところに、こじんまりとした森がありそこに大きな五輪石が安置され、かたわらには行者様や庚申様がまつられてあります。この五輪石は佐脇城最後の城主であった佐脇刀祢太夫の塚として言い伝えられております。刀祢太夫は奥平家の臣として天正3年(1575)長篠の戦いに参加し討死しました。三河二葉松という郷土史書には藤八兵衛と称していたと記しております。その子孫は佐脇四郎左衛門といい、700石を知行し大番組という幕府本営の警衛を任とする役を継承して栄えましたが、故あって家は絶えましたところ別に、佐脇十左衛門同伝十郎という2つの支流があって、これもやはり大番組や小普請組に勤務し後世まで続きました。それは余談ですけれども、この境内には宝永7年6月(1710)西国三十三所観音と書かれた碑石がありますが、これはその当時、近くの辻力3氏の家で、同氏のご先祖が屋敷内で井戸を掘ったとき、井底からこのような大石があらあれたので、80-2.png大変珍しいことと記念のために右のような銘文をきざんで祭ったものといわれています。
刀祢太夫の五輪石については、蒲郡の郷土史家故伊藤天章氏がきわめて珍しいものだと賞めていたことを思い出します。さて、この墓については、下佐脇の新屋の島の人により毎年「五輪様のおまつり」といって秋の道普請の行われる日に本見寺の僧を招いて供養が続けられております。大変奇特なことと結構に存じております。必らずや、五輪様が島の方々の幸福を守ってくださることと思います。むかし、大和の当麻の蹴速という人は野見の宿祢と試合をして負けました。これが相撲の起源といわれておりますが、この負けた蹴速の塚を土地の人は今も残念様ととなえて供養を続けていると聞きましたが、似たような話だと思います。供養ということはよいことだと存じます。

          広報みと❺文化財 昭和55年3月15日号より