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御津町商工会

⑯ 正眼寺

当寺は山号を瑞131.jpg光山といい、ご本尊は千手観世音菩薩で臨済宗妙心寺派長松寺の末寺です。
永正7年(1510)5月の創建ということで、開山は永伝宗久首座といい、この方は天文19年(1550)に示寂されています。明治21年調査の上佐脇地誌によれば、むかし上佐脇と下佐脇との間に中佐脇という村があり、その村の中に正眼庵と自光寺(慈光寺)の2つの寺がありましたが、のちにこの村がなくなったとき正眼庵は下佐脇へ、自光寺は八名郡瓜村(新城市宇利)へ移され、その寺跡は字名として残っていると記されています。
この正眼庵の跡地は、下佐脇から上佐脇に向かい通学路の安藤橋の坂を登りきり左折して50mほど入った所を正眼庵と呼んでいます。その東南を木戸田といっているのは山門の木戸があったからでしょうか。下佐脇に移されたころが永正7年の創立と推定してよいのではないでしょうか。
寺には薬師堂、庚申堂、十王堂などがありましたが、どれも腐朽して再建されず、それぞれの本尊仏は本堂内にお祀りしてあります。
お薬師様については、下佐脇における熊野三山のうちの一つとして字野先の東光寺に祭られていましたが、明治6年3月に次のような文書が発布され「郷村社ヲ初メ官許ヲ受ケ創建ノ神社ヲ除クノ外諸立ノ諸祠悉皆廃却申付候事」というわけで捨てて置けなくなり、翌年当寺へ合祀されたのですが、その堂宇が腐朽したため明治15年1月に取りこわし本堂に祀られました。
野先の東光寺時代にお薬師様が盗難にあい、代わりにお薬師を造ってお祀りしていたところ、奇しくも盗難の本尊様が見つかりめでたく返還されたため、現在は新旧2仏をお祀りしています。盗まれても元の寺に帰されるほどのお薬師様は諸病平癒の霊験あらたかな仏様として、早くからそのご利益は近隣に知れわたり、信者も多くふえました。そこで薬師講を組織して、旧10月8日の大祭を盛大に行い、茶飯、けんちんを饗して参拝者にふるまい、福引や演芸なども行われ大へんにぎわいました。
十王堂は取りこわされた後再建されないまま、本堂内に佗住まいされています。この十王は、文化13年(1816)の火災で焼失した後、文政3年(1820)に名古屋橘町栄屋善兵衛店に出張中の京の仏師に6両2分で造らせ、その年の6月18日に開眼されたもので開眼雑用3両2朱624文との記録があります。山門の脇に西国三+三所観音の石仏が安置してあります。
創建以来正眼庵と称していましたが、戦後正眼寺と改称されました。

       みと歴史散歩❸音羽川の周縁 平成12年2月発行より