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御津町商工会

⑭ 弘誓山『浄願寺』

130.png字西16に所在し浄土宗大恩寺の末寺で、山号は弘誓山といい本尊は京都七条の大仏師宮内法印定朝の作といわれる阿弥陀如来で、この寺の創立は文明9年(1477)と記録にありますがまた別の資料では永正15年(1518)とでており、いずれとも決しがたいのですがどちらにしても40年ほどの相違だけで大差はありません。開基は大恩寺の第2世肇誉訓公上人です。この寺はもと現在の御馬城趾碑の西南で、旧字を須賀というところにあったのですが、寛永12年(1635)8月の台風による津波をうけ破壊されたので、同14年11月現在地に移転再建されたということです。旧字須賀に林貞屋敷というしこ名を伝えていますが、これは住職林貞の高徳をしたって付けられた地名といわれます。本堂は天保5年(1834)の建立にかかり、また庫裡は同4年の建築です。境内には地蔵堂・観音堂・行者堂などがありいつごろの創建かはわかりませんが、この三つの堂は明治12年報告書にも載っておりますので、これより以前に建てられたものといえます。むかし、よく祝融の災にあったとのことで、口さがない人は焼け寺などというとのことですが、諸人の罪障を焼却したものと解せられ、火のような強い霊験のあらわれであったでしょうか。境内にはまた、大正12年に地元の波多野栄吉氏・波多野長左衛門氏らが世話人となって四国八十八ヶ所にならい、弘法様とそれぞれの寺の本尊様とを対にした石像を88基境内せましと配列安置して、善男善女の参詣の便を図られました。命日には参拝客でにぎわい、菓子などのお接待が行われます。外に行事としては節分の豆撒きなどもあります。本堂内向かって左の脇檀にあるほぼ等身大の木像観音菩薩像は、東京の人で岡崎市百々に住んでいた小針運林という人が家族に三名の戦死者を出したことを心にきざみ、その追善のため一心こめて鑿を揮い制作したものを昭和31年に当寺へ奉安したもので、白鳳仏を模したものといいます。当寺は境内約300坪余でほかに寺領として約3反6畝の田畑藪等がありましたが、ほとんど戦後の農地解放で失われました。現住は河原静誡法尼で熱心に寺務鞅掌しています。なお境内には南部保育園が設けられています。

       広報みと❼文化財 (寺) 昭和59年5月15日号より