小規模事業者の活躍を応援します。

御津町商工会

㉒ 素蓋嗚神社

ご祭神は天照139.jpg大神の御弟の素蓋嗚命です。
今から400年ほど前、下佐脇村の白井次郎太夫という人が夢のお告げによって、海で塩浜の仕事をしていましたところ、津島天王社のみ葭が流れ着いているのを発見し、恐縮してこれを近くの小高い所にお祀りしたのがこの神社の起こりです。
それで次郎太夫は慶長6年(1601)8月18日記念のためお浜木として松を植えました。とき25歳であったといいます。
このことは、白井家蔵寛延2年(1749)の文書に出ています。そのため、下佐脇村の庄屋は次のように証文をその子孫に交付し、お宮の管理を委任しています。
  証故一札
1、字洗出天王社 壱 宇右者往古より其方へ支配致来候所眠蔵新田開起二付弥相改め永く子孫に至迄其方支配可致者也。享和2壬戌年(1802)月名主清右衛門、五郎太夫とあって宛名は次郎太夫としてあります。
新田は幕府代官の命により眠蔵により開発が進められ、文政年間(1818~)には移住者があらわれ、当社は氏神として崇められましたが管理は白井家が行っていました。明治以降いつしか鍵は神社へ帰されましたが、白井家の後継者がこの習慣を受け継ぎ、その例祭には、数年前までは招待を受けて参拝していました。

下佐脇新田の開発
江戸中期の全国総石高数は、江戸初期と比較して約1・5倍もの伸び率を示しています。
これは農業技術の発達や、作物の品種改良などの理由もあげられますが、とりわけ新田畑の開発が大きな比重を示しています。
新田の開発では、その耕地が村高・村反別に加算される場合と、その耕地によって新しく村づくりされる場合とに大別され、前者を持添新田、後者を村立新田ともいいます。
下佐脇新田は、村立新田に該当します。当新田は、江戸初期の頃からすでにその一部が開発されていたようですが、本格的な開発が行われたのは、赤坂代官所から命をうけて加茂郡中村の珉蔵が、明和8年(1771)から寛政10年(1798)にかけてのことです。文政6年(1823)大体現在のように完成しました。
開発されると同時に徳川幕府の領地となり、赤坂代官所の支配下に入りました。文政2年(1818)の御竿入(検地)では、12石2斗5升8合でした。その後天保元年(1830)から明治2年まで西尾藩主松平和泉守の領地になっていました。

       みと歴史散歩❸音羽川の周縁 平成12年2月発行より