大化の改新をされた天智天皇の没後、皇位をめぐって672年に壬申の乱が起きました。
この戦いに勝って即位された天武天皇は、律令政治をすすめて天皇の権力を確立するとともに、地方支配にも力を入れました。
天武天皇の没後皇位を継がれたのが、皇后の持統天皇であります。『続日本紀』によると、譲位後上皇になられ大宝2年(702)の秋、壬申の乱の跡を訪ねられ、三河に御幸されたということです。そのときの行在所の跡と伝えられている所があります。それは下佐脇字御所で、後世の人がこの神聖な場所をけがされることを恐れて、行在所の跡に小さな祠を建て、御所宮と称し崇敬を集めました。このお宮は現在下佐脇の佐脇神社境内に移され御所大明神としてお祀りしています。
なお、この近くの音羽川の右岸にかつて大きっな老松があて、石川信栄翁(彦七)の建てた行在所記念碑がありました。行在所といいましてもその敷地は広かったのでしょう。御馬字宮浦すなわちこの老松の北方近くに5坪ほどの草生いた塚があり、ここにも行在所跡と言い伝えられていましたので、石川翁は最初にここに記念碑を建てようと考えていたようですが、地主と話し合いがつかず、ここはあきらめて同じ旧跡内に残る老松の下に碑を建てることにしたようです。
しかし、後年になり松にはそれが幸いして、昭和9年ごろ音羽川下流の拡幅改修工事が行われたとき、松は工事の邪魔になって危うく伐り倒されることになりましたが、地元の保存に対する熱意と、御所宮跡という記念碑が建っていたおかげで、県土木も皇室の旧跡ということで拡張工事はここを避け、堤防の内側に堅固な石垣をもって保護を加えられました。ところが昭和五六年ごろこの地方に大発生したマックイムシの被害により枯れてしました。その後平成2年に音羽川下流の再度の拡幅改修工事により記念碑は、堤防の内側から外側に移され、新しく御津磯夫の歌碑が建てられました。
三河への御幸は皇子の跡訪ひと紀にのこらねど吾は記さむ
いずれにしても、御所宮跡と記念碑を結ぶ範囲に行在所が置かれたとみてよいでしょう。
この附近の字名には、次のように御幸にゆかりのものが現存しています。上皇の船が着いた所を天神、滞在された所を都、行在所が設けられた所を御所といい、そこを流れている川を御所川(今の音羽川)といっていました。
また、三種の神器の勾玉を置いた所を玉袋、剣を置いた所を剣、鏡を置いたところを加美(かがみの略)というように伝えられています。また、旧字名に宮浦、宮前、皇子ヶ谷、御膳田などの名がこの辺りにあるのも何らかのかかわりがあるように思われます。
みと歴史散歩:❸音羽川の周縁 平成12年2月発行より