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御津町商工会

⑳ 竹本三郎左衛門家と 羽鳥の水もらい

為当村の竹本四郎左衛門成久の第2子三郎左衛門重吉は、天文23年(1554)下佐脇村の羽鳥300石の田地と、氏神として、為当村の産土神から牛頭天王と藤社権現との2つの分霊とを奉じて下佐脇村の鎌田へ分家してきました。竹本三郎左衛門家の初代で、現在の竹本祐治氏の始祖です。
重吉が分家としてくる時、本家の四郎左衛門は羽鳥地区の灌漑用水保護を約しました。
それは音羽川から為当に導入する用水をさらに分けて、羽鳥方面に送ることを定めたもので、昭和43年に豊川用水が通水されるまでの400余年もの間恩恵に預かったものです。
これについて次のような慣行がありました。旧暦の5月の中日(夏至の日)になると、水をもらう儀礼として三郎左衛門と村の代表者とが四郎左衛門の家へ挨拶に訪れるのです。
正客は三郎左衛門で、これに庄屋、百姓代、定使いが同行するのでした。昭和40年代までは、三郎左衛門家の当主と区長、副区長、定使いという顔触れであり、服装は羽織に菅笠、蓑を着て、草鞋ばきというものでした。持参物は酒1升と金千疋(今は千円)で、お金の方は始祖重吉が御分霊をいただいてきた為当稲荷神社に納め、酒一升は竹本四郎左衛門の家でその先祖に捧げたのち、お下がりを四郎左衛門家で憫をつけ、同家で用意してあったものでもてなし、両者歓談の後行事が終わるのです。また、同じ日下佐脇村から人夫が1人出て土俵を作り、川原田村より下流に堰をつくることになっていました。
このように為当と下佐脇とは密接な関係にあったから、例祭には互いに区長を招待し合い、下佐脇からは鏡餅と神酒を奉納する例でありました。青年団も余興などがあって警護を要する時は、互いに警護役を努めました。

       みと歴史散歩❸音羽川の周縁 平成12年2月発行より