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御津町商工会

㉙ 『万葉遺跡二見道』

93.png 妹もわれも一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる 高市黒人

三河の二見の道ゆ別れなば吾が背も吾もひとりかも行かむ (一本にいう)
昭和54年夏に愛大学長久曽神先生が当中央公民館で講演されたとき、前の歌について「妻の私も元来一身同体であるからでありましょうか、この三河の二見の道から別れなければならないのであるけれども、別れかねているのであるよ」という意であるとのことでした。次の歌は三河の国の二見の道から別れたならば、あなたも私も別れ別れになってただ1人で行くのでしょうか」というわけですがこの歌は一本にいうと注釈がありますた、これは前歌の異同を示したのではなく別本にあった前歌の答歌ということで、黒人の妻の作といわれています。
さて、この二見の道については古来諸説があって、二見というのは地名であるとも、また、東海道から分岐する別街道の名であるともいわれますが、今は後者の解釈が定説とされています。しかし、その地点はどこであろうかということになりますと豊川市の御油町から分岐する姫街道であろうといわれるわけですが、久曽神先生は藤川赤坂御油を連ねる今の東海道は、ごく近世のものであって万葉時代の東海道というのはこれではなくて、承平年中(931~938)に完成した和名鈔にでている宝飯郡の釜に形原、赤孫、(赤日子)美養(三谷)、御津と書かれておりこれらを結んだ線が往古の東海道と考えられるとの説を発表されています。それによりますと、古東海道は海づたいに三谷から御津に入り広石を経て国府方面に向うのですが、一方において五井方面から国坂峠に出る別街道が東下してきて広石に入りあい交差するところが、夫婦の別離した二見道であろうということであります。すなわち浄宝寺の西の旧道にあたります。

          広報みと❺文化財 昭和56年4月15日号より