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御津町商工会

⑳ 『森寺忠勝の墓』

85.png池田輝政は天正18年(1590)吉田城主となったとき4ヵ所に塁を築かせて部将を派遣し守備させました。西方もその一つで森寺政右衛門忠勝が配置されました。彼はこの西方で慶長4年(1599)に亡くなりました。いま、彼の名をとった忠勝寺の本堂の向かって左側の墓地に、元文5年(1740)子孫の池田隼人俊清が建てた立派な墓があり、碑銘もほとんど磨滅しておらずよく読めますのですぐと分ります。表には忠勝院殿浄雲玄清居士、左側に俗名森寺政右衛門藤原忠勝としてあります。
裏の碑銘は漢文ですけれども、意訳しますと「森寺政右衛門忠勝は池田紀伊守信輝の家臣であり、その父森寺藤左衛門秀勝は藤原秀郷の子孫で田原又太郎忠綱十六代の孫である。忠勝は武勇に勝れ、攻城野戦何れの戦いにも従軍しない折はなくとりわけ濃州軽美摂津の花熊の戦い、また小田原の役には敵を蹴ちらして先登し首級を挙げたこと多くその余の武功は数限りない。慶長4年4月18日三州西方村で卆した。享年53才であった。池田備中守長幸(長吉の誤刻と思う)の次男長貞を後嗣とした。池田下総守長政と称した。その後、主君池田氏の分族となり遂に源姓となたった。ああ、忠勝の墓は久しく残ったものの痛んでいるのでここに黒石で新しく建て先祖追慕の意を表すものである」と。寛政重修諸家譜をみると池田輝政の弟の長吉の二男が長貞であり、長幸は父でなく長兄に当たります。墓碑銘の方がまちがっていると思います。長貞について系譜には「次助、主水、母は伊木豊後忠次の女、宗家の臣森寺政右衛門忠勝が養子」と附記しています。忠勝寺には備前岡山からの往復を証する書状箱一つだけが残っています。

          広報みと❺文化財 昭和55年8月15日号より