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御津町商工会

⑧ 『船山古墳』

63.png広石の竹本古城趾から、東北へ200メートル距ったところに、人家にかこまれて松や竹の生い茂った、高さ4メートルほどの小さい山があります。これがこの古墳でありまして、前方後円の形がよく保たれています。昭和35年12月16日、県から派遣せられた岩野見司氏が調査されたところ、盗掘抗のない点、周りに堀の跡のあることなどからみて、貴重な古墳であると指摘せられ、出土品がないので時代の判定はむつかしいが、5世紀末から6世紀くらいのものであろうとのお話でありました。
明治26年(1893)早川氏編纂の宝飯郡誌の有力資料となった、各町村から提出された下調書の扣えが残っていますが、郡誌はその下書の全文を記載したわけではなく省略されたものもあり、今残っている扣えには、船山塚について「高サ六間、周囲57間、面積90坪、是レ新宮落城ノ時ニ当テ首級及武器等ヲ埋没セシ跡ニシテ宝暦(1751-1763)ノ頃石櫃及刀剣等ヲ発掘セシ事アリト云フ」と記してあります。ところが、これにバッ点を附して抹消の意が表されてあり、そのため郡誌には載せられなかったようです。しかし、宝暦発掘という件は何か拠りどころがあって書いたものと思われますので、その事実はあったのかも知れません。
この道に造詣の深い蒲南小の中村長平氏は、豊川市の上宿にある船山古墳が東三地方最大の古墳で、多分、国造級の人の墓であり大和政権との繋がりのシンボルとみるべく、こちらの船山古墳は上宿の古墳の主に従属関係にあった豪族の墓ではなかろうかと考えられるといっておられます。おそらく、そうでありましょう。

          広報みと❺文化財 昭和53年10月15日号より