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御津町商工会

★大恩寺の『王宮曼荼羅図』 (7-㉔)

49.pngこの画幅は、徳川家康より五代前の松平親忠が大恩寺へ寄付したもので、我が国に伝存する数少ない朝鮮仏画(西暦1312年作成)の一つとして珍重されています。
この画には釈迦在世のころ、インドにあったマガダ王国のビンバシヤラ王と、その王子アシヤセとの間に起った悲劇的なできごとが画かれています。
少し話しが長くなりますがそのあらましは……、ビンバシヤラ王に子がなかったので、占い師にみてもらったところ「今、山中に仙人が一人おり、この仙人が死ぬとその身代わりとして始めて王子が生まれることになっている」ということでした。しかし、長寿の仙人がいつ亡くなるか分かったものではなく、いらいらした王の命によって仙人は秘かに殺害され、やがてその結果占い師の予言のとおり王子が生まれた。これがアジヤセです。
アジヤセは成人の後は、父親のビンバシヤラと同様好戦的であって、軍事に励みしきりに隣国を侵そうと企てていた。
そのころ、釈迦の従兄弟にダイバダッタという人がいて、一旦は釈迦の弟子となったが勝手な振舞が多く破門されていた。アジヤセ太子はこのダイバダッタと懇意になり、その共通の目的に向って互いに力を合わせていた。アジヤセはダイバダッタの力によって王位を得たいと思い、ダイバダッタはアジヤセ太子に取り入ることによって、自分の勢力を拡張し釈迦を追放しようと考えていました。
アジヤセはダイバダッタにそそのかされて遂に父のビンバシヤラ王を城内の七重の牢に幽閉してしまった。出牢の条件として「速かに王位を譲ること」「私のすることは無条件で認めること」この二つが守られるなら出してやろうということでした。しかし、到底父王の認められることではなく拒否にあうと、惣ち食事の差し入れが停止された。
そして、餓死するはずの父王は七日経っても10日経っても降参する気配がない。不思議に思って秘かに監視をしていると、母后のイダイケ夫人が、許されていた面会にことよせて、体中に麦粉や蜂蜜を塗って衣服の下にかくし番兵の目をごまかして検問所をくぐり、王の食に充てていたことが分った。激怒した王子は母后を刺し殺そうとしたが部下のいさめによってからくも思い止まった。
食事の入る道を完全に断たれた父王は間もなく飢え死にした。やがて太子は王位に即き、しきりと隣国を攻めたがどうも釈迦が自分に向って反抗的態度をもっていると誤認して、報復のため百匹の象に酒を飲ませて興奮させ釈迦の一行を襲わせたりした。これは釈迦の神通力で防がれ失敗に帰した。
その後、アジヤセ王は再び隣国に攻め入ったが大敗して捕らわれの身となり死刑にされるところを、当時すでに諸国に名を知れていた釈迦の口ききで命を助けられた。
一方、ダイバダッタは釈迦に危害を加えようとして、その一行に大石を投じたりしたが失敗し、かえってダイバダッタの仕業ということが知れわたり、彼を非難する声が町にあふれ頭に来たダイバダッタは、釈迦の側に付く尼僧を一人殴り殺したところ、にわかに大地が割れて地中深く吸いこまれ、生きて地獄に落ちたといわれている。
釈迦が遂にこの世を去る日がやってきた。

          広報みと❺文化財 昭和52年7月15日号より

そのころ、アジヤセ王は虎の肉を食べた中毒でひどいジンマシンにかかり苦しみ、気息奄々としていた。
死んだ父王が夢に現われ、「今、釈迦はネハンに入ろうとしている。この世を去るのは間もない。釈迦がなくなれば誰がお前の病気を治すことができよう。早く行け」とささやいた。
一方、釈迦はいよいよこの世に別れを告げようとしていたが「間もなくアジヤセがやってくる。私は彼を救うためにもう少しこの世に生きていよう」といった。ふらふらになってアジヤセ王が担ぎこまれてきた。「アジヤセよ、よくきた。過去の罪は問うまい、早く病気を治してやろう」といって彼に光明を与えると忽ち病気は治癒したという。
このこと以来アジヤセ王は心から釈迦に帰依するようになったといわれる。
これが、この画幅の物語の稉概です。
王宮曼羅図は上中下の三段に分かれて、たてに画かれ事件の経過を示しており、下の段はアジヤセ王が怒って剣を抜き母后を蹴りたおし刺し殺そうとしているところ、中の段は父王ビンバシャラが釈迦を礼拝すると、雲の上に釈迦が現われて、二高弟が説法のために飛来するところ、上の段はイダイケ夫人が霊鷲山にいる釈迦を拝んでいるところです。

          広報みと❺文化財 昭和52年8月15日号より