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御津町商工会

⑧ 瑞光山『正眼寺』

124.pngこの寺は字郷中23ノ1に所在し、白川の清流に添い旧佐脇城の西南に隣接しています。臨済宗妙心寺派長松寺の末寺で本尊は千手観世音菩薩です。永正七年5月(1510)の創建ということで開山は永伝宗久首座といい、この方は天文19年(1550)示寂せられております。明治21年調査の上佐脇地誌によればむかし上佐脇とした佐脇との間に中佐脇という村があってその中に正眼庵と自(慈)光寺の2つの寺が存在し、のちこの村が解散したとき正眼庵は下佐脇へ自光寺は8名郡瓜(宇利)村へ移されたが、その跡は自名として残っていると記してありますがこの正眼庵の旧地は下佐脇から上佐脇に向い通学道路の下安藤橋の坂を登りきり左折して50メートル位入った所を正眼庵と呼んでいます。その東南を木戸田といっているのは山門の木戸があったからでしょうか。下佐脇に移転したころが永正七年の創立と推定してよいのではないでしょうか。
 寺には薬師堂庚申堂十王堂などがありましたが、ことごとく腐朽して再建されずそれぞれの本尊仏は本堂内にお祭りしてあります。お薬師さまついては、下佐脇における熊野三山の一として字野口の東光寺に祭られていましたが、明治6年3月無号にて次のような文書が発布され「郷村社ヲ初メ官許ヲ受ケ創建ノ神社ヲ除クノ外諸立ノ諸祠悉皆廃却申付候事」というわけで捨てて置けなくなり翌年宇寺へ合併されたのですが、その堂字へ合併されたのですが、その堂字が腐朽したため明治15年1月取りこわし本堂へ合祠されました。
野口の東光寺時代にお薬師様が盗難にかかり、代りのお薬師様を造ってお祭りしていたところ奇しくも盗難の本尊様が目出たく返還されたため現在は新旧2軀をお祭りしてあります。この話については昭和11年3月号の広報に発表してあり重複するので省略します。盗まれても元の寺に帰されるほどの霊験あらたかなお薬師様は諸病平癒の仏様として早くからその御利益は近隣に知れわたり、多くの信者がふえました。檀信徒は薬師講を組織して対処し、旧10月8日の大祭を盛大に行い、茶めしけんちんを饗して賓者にふるまったのでこれは大変評判がよく、また余興として映画演芸等も興行されたといいます。
十王堂は取こぼち後再建するに至らず本堂内にわび住いされています。この十王は文化13年(1816)の火災にやけ文政3年(1820)に名古屋橘町米屋善兵衛店に出張中の京の仏師に6両2分で造らせその6月18日に開眼されたもので開眼雑用3両2朱624文を費したと記録があります。境内に300年ほどの末があり風趣を存し、通路の石畳も古雅です。もと正眼庵といっていましたが戦後正眼寺となりました寺領の八反余の田地は農地解放で失われました山門脇に西国観音様を安置しています。現住は荻須義考和尚です。

       広報みと❼文化財 (寺)  昭和58年11月15日号より