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御津町商工会

③ 夏雲山『竜泉庵』(廃寺)

118-1.pngこの寺は字犬田76に所在し境内は260坪でした。開山は桃林見公首座です。山号は夏雲山といい曹洞宗に属し東漸寺の末寺です。享保10年(1725)に岩瀬市右衛門重賢が51歳のとき書いたメモによれば、寺は古くからあり中途にて廃絶していたのを岩瀬氏の祖が大永元年(1521)に再興し、かつ己の寺として創建したものです。
岩瀬氏というのは下長山を根拠地とし今川義元の三河十七騎の1人として活躍した地侍でしたが、岩瀬氏の兄弟は雅楽之介を中心とし清兵衛氏貞と藤左衛門貞重と3人あって皆今川氏に仕えていたことは系図に明かです。今川氏が桶狭間で敗死した後十七騎の多くは松平氏に帰属したけれども岩瀬氏は二君に仕えずという心でしょうか上佐脇に帰農し、雅楽之助という名を捨て新たに吉十郎貞秀と改め上佐脇の統治者となったのですが、天和元年(1681)岩瀬宗太夫重定の記録によれば舎兄吉左衛門氏与(兄氏定の子に当たる)は松平氏に仕え旗本となったと書かれていますが、この子孫に幕末のころ活躍した外交官岩瀬肥後守忠震がおり、その墓は雑司ヶ谷霊園にあります。
十七騎というのは重定の記録では書き落しとみえ16人しかなく、林自見の三河吉田記(寛延3年、1750)に出ているものと対比して補うと「前田惣兵衛、朝倉七右衛門、石原次郎兵衛、渡辺平内次、室金平、白井麦右衛門、渥美順慶、舞車小平次、星野一閑、岩瀬雅楽之助、本田如雷、小林雅楽、塩ノ瀬勝西、川合118-2.png実戸平、後藤喜四郎、佐竹刑部、石田式部(石田を吉田記より補う)」となります。十七騎というも百姓の侍で、それぞれ部下が十名内外いたように思われます。十七騎は後に徳川家に仕え彼らは慶長19年(1614)大阪陣のとき吉田城で家康にお目見得したところ御褒美として「民が屋をでんと唱えて国の花十七人のかげ武者のあと、源家康」という歌を給わったということが豊川市森町佐竹健吾氏(刑部)の古文書にでています。
さて岩瀬の本家は代々氏神様の神職をつとめ明治を迎えましたが同じ神職の石黒須賀雄、生田要らと協議し仏葬を脱し神葬祭に改宗することになり本堂(木造四注作造萱葺28坪)を民屋に改修して移転し明治16年に寺を廃止したのですが、神職でない他の岩瀬氏は改宗せず常光寺へ転属したので本尊聖観音は、いま常光寺に併せ祀られています。旧境内は墓地のみが残っています。

       広報みと❼文化財 (寺)   昭和58年5月15日号より