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御津町商工会

㉒ 呑海山『法住寺』

138.png当寺は赤根字百々61番地に所在し、本尊は大日如来です。山号は呑海山といい曹洞宗の小本寺です。創建は永正5年(1508)9月と伝えられ、開基家は足利11代将軍義澄です。彼は明応3年(1494)征夷大将軍に任ぜられ幾多の曲折に翻弄されながらも17年間、その職にあり晩年は全将軍足利義稙が大内義興に擁せられて京に攻のぼると聞き、近江の甲賀に逃がれたのですが、九州の雄大共親治、養長父子に頼って京の恢復を図り同8年5月上京しようと企てましたが、果さぬうち同年8月14日近江の岡山(近江八幡市付近)において32歳の若さで没しました。これより先、足利氏の有力者細川家が三河にあり、また当寺付近の豪族波多野氏は細川氏の臣であったため、ともどもその領内に1寺を建てるようとの義澄よりの意をうけて当寺を創立し法住院と号したとのことです。当寺にある義澄の位牌には法住院殿義澄旭山大居士となっています。
国史大辞典所載の法号には法住院殿旭山清晃となっております。清晃とは天竜寺において僧籍に入ったときの称です。なおまた、今川氏の帰依も厚く義元、氏真父子の出した永禄元年(1558)同3年の安堵状が保存されています。寺はもと神場山にあったのですが荒廃はなはだしく領主松平長三郎忠高により寛永19年現在地に移転され立派な堂宇を建てられたので忠高を中興開基と称しています。忠孝の帰依した幡豆郡長円寺の3世愚溪膳哲和尚を招いて寺名を法住寺と改め、その開山としました。なお、明暦2年6月(1656)忠高は6石5斗の寺領を寄進しました。忠高については58年10月号の広報にふれておきましたので略しますが、その妻は吉良上野介義央の父の妹で延宝2年(1674)になくなり、忠高も元禄5年(1692)に死去しましたので2人とも養士騒動以前にこの世を去り身内の不幸を知らなかったのは気が楽であったと思います。忠高はこの上なく当寺が気に入っており、江戸でなくなりましたが遺命により亡骸はわざわざ江戸から運び当寺の裏山に葬むりました。自休院殿不峰源白居士といいます。神場山から移された中門には左甚五郎作という唐猫の蛙股があり、夜な夜な出でて庫裡の食物を荒すので時の和尚が足を切り落してからおとなしくなったといいます。観音様については52年5月号広報をご覧ください。観音様の霊験あらたかで家内安全商売繁昌、入学祈願等諸願がよく叶えられ参拝者は引きも切らず、成就のあかつきはだるま様を奉納するのが習いです。また、三河八十八ヵ所弘法大師第51番札所になっております。昭和53年に観音堂を、開山堂は同56年に改築されました。現住は榊原勝三方丈です。

       広報みと❼文化財 (寺) 昭和60年1月15日号より