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御津町商工会

④ 『引馬神社』

99.pngご祭神は素盞嗚命で、この神様については前号でご説明いたしました。御馬字梅田3にご鎮座になります。この地方の名社であり神社の社格が重んぜられたころは郷社に列していました。創立は一条天皇の正暦年中であって、ある人の注記には正暦2年10月15日(991)創立ということが旧記にあったとのことで大体そのころ京都の八坂神社から勧請されたと伝えられます。渡辺富秋の書いた統叢考という史書によれば今川五郎国範(範国と同じ)という武将は駿河守護職であり足利尊氏に属していましたが、当社を崇敬し自ら参拝して武運長久を祈願し観応元年(北朝、1360)には社殿を造営し、また社領として庄田5町八反を寄附したとのことです。それから約100年の後、御馬城主であった細川治部大輔政信もまた社殿を再興したといわれます。天文年に入って勢威隆々たる今川義元はその領有する地方民の人気をあつめようとして盛んに社寺に対し寄進状を発行しました。当社の分は次のとおりです。

参河国御馬郷牛頭天王領之事右従前々当家寄附之分5町八反歩任先例令寄附之者也仍如件 天文2年5月28日(1551) 治部大輔

 こればかりでなく、さらに義元は部下の牧野右馬允、岩瀬和泉守に命じて社殿と鳥居を修復させました。今川義元が桶狭間にて敗死したあとは徳川方の長沢城主松平康忠が永禄5年(1562)御馬を領有し社領の五町八反はご破算になりましたが、代りの原野、水田等が寄進され康忠も親しく参拝の上槍一筋を献じたとのことです。その子市郎右衛門直信は病弱で官途につかれず専ら当村に篭居し社参もたびたび行われたとのことで「にやあら百年」といいますが弱弱しい人は却って長生きし直信も88才まで生きました。慶長6年(1601)伊奈備前守から社領五右の黒印状を得ましたが伊奈は吉良の生れで友人の古川九七郎と浪人して一時御馬にいたことがあり禰宜の石黒与三太夫と古川とは結縁関係にもなりそれらの縁でこの黒印はすらすらともらえたようです。同8年家康より朱印も得られるべきところ言上を怠りもらえずじまいになったといいます。

      広報みと❻文化財(神社 昭和56年10月15日号より