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御津町商工会

㉚大恩寺

30-1.jpg津神社の参道を南に出て西に入ると、門の建物が先に見える。この門をくぐると大恩寺の境内に入る。
寺伝によれば、大恩寺の始まりは新宮山にあった浄光院という三論宗の寺院で、文安元(1444)年に弘経寺(茨城県常総市)の僧了暁が、荒廃していた浄光院を再興して、浄土宗大運寺を開いたという。了暁は弘経寺で多くの弟子を育てていたが、浄土宗鎖西派の普及のため先に三河に進出していた弟子たちの要請により、三河に移ってきたと考えられる。了暁没後は、弘経寺時代から了暁に従ってきた訓公が後を継ぎ、延徳2(1490)年に訓公は寺を御津山の現在地に移転した。寺の移転にあたっては松平親忠(松平第四代当主)の援助があり、以来松平家の庇護を受けることとなるが、その背景には親忠の息子が訓公のもとで修業していたこともあるのかもしれない。その後大運寺は、浄土宗鎮西派の地方拠点寺院にふさわしい発展をとげたので、訓公は大運寺中興の祖とされている。天文年中(1532~1555年)には、徳川家康の父である松平広忠により寺の建物の修復が行われるが、超誉(松平親忠の五男)や成誉(松平清康の三男)がこの寺で僧になっており、松平家にとって大恩があるということから、この時、寺名を大恩寺に改めたという。また、念仏堂(現存せず)の建立を行った牧野氏の庇護も受けていた。

絹本著色王宮曼荼羅図【国指定重要文化財】(見学できません)30-2.jpg
松平親忠が寄進したと伝えられ、縦133㎝、横51㎝ある。右下に皇慶は元(1312)年2月と記されており、制作時期が分かる(皇慶は元(中国)の年号)。『愛知県史別編文化財2絵画』によれば、この絵画は長らく「王宮曼荼羅」として伝承されてきたが、その内容は観無量寿経の冒頭部分に縁起として説かれる摩竭陀国王舎城の悲劇をあらわしたもので、正しくは「観経序分義変相図」という内容の仏画であるという。画面には、説話を上中下三段の場面に分けて、ほぼ時計逆回りに異時同図法で描かれている。また、大正7(1918)年の旧国宝指定時から朝鮮の高麗での制作とされてもきたが、絵画史研究の進展により、現在では元で制作されたものとみられている。南宋仏画の伝統をとどめる元時代仏画の基準作として、また南宋とは異なる新たな仏画師たちの動向を伝える作例として評価される絵画である。

大恩寺山門【県指定有形文化財】
30-3.jpg寛文12(1672)年に、大垣城主戸田采女正が寄進したものである。戸田氏の夫人は牧野家の娘であり、そのことが牧野家と縁のある当寺に山門を寄進した理由かと思われる。三間一戸の重層門で、屋根は入母屋造・本瓦葺の禅宗様の建物である。規模は間口が7.6m、奥行4.4mと大型の門で、両側面には階段が設けられ、上層の縁に昇降できるょうになっている。禅宗様の建物でありながら、上層屋根の垂木が禅宗様建物にみられる扇垂本でない点も特徴である。県内の大型の重層門は、大樹寺三門(岡崎市)、建中寺山門(名古屋市)など少ないため、希少価値が高い。

阿弥陀廿五菩薩来迎図【県指定有形文化財】(見学できません)
絹本着色の三幅構成の来迎図で、松平親忠が寄進したと伝えられる。中幅に正面向きの阿弥陀如来立像を、左右幅に立像の観音・勢至・二十五菩薩を振り分けて描いており、中幅は縦122.6㎝、横51.8㎝、左右幅は縦111.8㎝、横55.2㎝ある。15世紀の制作と考えられ、県内の阿弥陀廿五菩薩来迎図の中で最も大規模な作例として注目される。

蓮の図【県指定有形文化財】(見学できません)
徳川家康が寄進したと伝えられる絹本着色の対幅で、縦145.8㎝、横81.8㎝ある。明(中国)で制作されたもので、京都の知恩院蔵「蓮池水禽図」と図様が似る。蓮の花弁の柔らかでふくよかな様子や湾曲する茎・葉の様子が精彩に描かれ、細緻だが迫力を感じさせる絵画である。

    豊川の歴史散歩小坂井の町から御津へ 平成25年10月発行より