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御津町商工会

②医王寺

104-3.jpg糟塚砦跡地の龍徳院を出て北東へ500m行くと、白壁と山門のある曹洞宗寺院の医王寺がある。
医王寺の始まりは、縁起によれば、大宝元(701)年とされる。時の文武天皇が病気で悩んでいた時、ある陰陽師が「三河国勝岳山(鳳来寺山)の仙人が加治すれば平癒するであろう」と申し上げた。そこで勅使が勝岳山に遣わされ、篠束の地(医王寺辺りの地)で一泊した。その夜に勅使は霊夢を見て、それに導かれて勝岳山に無事到着することができ、仙人に加治を願った。その結果天皇の病気はよくなった。勅使が天皇に霊夢の話をしたところ、天皇は「その地に伽藍を建立し、薬師如来を安置し、天牛山医王寺と号すべし」と申されたといい、これが医王寺の始まりという。105-1.jpg
医王寺の境内では、古くから古瓦の出土が知られており、出土した軒瓦(軒先を飾る文様のある瓦)の文様から、7世紀末から8世紀初め頃に瓦葺建物がこの場所に存在していたことが分かる。古代において瓦が使用される建物は、寺院や役所などに限られるため、医王寺境内及びその周辺には古代寺院が存在していたと考えられ、また寺の縁起にある草創時期(大宝元年)と瓦の年代が一致することも興味深いところである。
東三河地域で確認されている古代寺院跡としては最古に位置づけられる遣跡であり、豊川沿いの沖積低地を望む、この地方の中核的古代寺院として栄えていたと考えられる。境内には当時使用されたものと考えられる礎石(建物の柱をのせる石)が―つ現存している。

松風碑
医王寺境内には、松風碑とよばれる五輪塔がある。古くから西郷弾正の墓碑といわれ、近隣の屋敷内にあったものをここに移転したものという。西郷弾正は、戦国時代において篠束の地を領していた人物で、当初は今川方についていたが、のちに松平元康(のちの徳川家康)に従い、そのため今川氏真より篠束の所領を没収された。医王寺の北約900m辺りの地に大堀という字名があり、この地にかつて篠束城があったといい、西郷弾正はこの篠束城を居城にしていたという。

本多匡の墓
本多匡は、文政12(1829)年に篠束神社の神官本多光臣の長男として生まれ、父の影響を受け平田篤胤(江戸時代後期の国学者。幕末期の尊皇攘夷運動に大きな影響を与えた)の門下生として活躍した。明治2(1869)年に小竹園という私塾を篠束に開いて、郷里の子弟を教育するとともに、国府村に設立された修道館や豊橋藩校時習館皇学寮の講師も勤めた。ついで明治5年に政府に招かれ、教部省編纂係に任命された。明治7年には越後国(新潟県)の一ノ宮弥彦神社の宮司になるが、明治9年に没し、東京青山墓地に墓が建てられた。この供養塔は、小竹園時代の教え子が師の徳を慕って建立したものである。