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御津町商工会

⑲力寿の碑

星野神社を出て財賀町方面に向かう市道を2㎞ほど進むと、左手に文殊山とよばれる小山がある。そのふもとに桜の木があり、その下に石碑がある。長年風雨にさらされ碑面は読みづらいが、安永5(1776)年に財賀寺の住職の昶如が、力寿と大江定基にまつわる言い伝えを後世に残そうと建立したもので、昶如の兄で豊後国(大分県)岡藩の近侍隊長であった加治光輔に文章の作成を依頼したという。碑文には、
『力寿は赤坂村の長福氏の娘で、美しく歌舞に優れていた。三河の国司大江定基に愛 されたが、いくばくもなく病にかかり亡くなった。定基は悲しみの余り7日間も埋葬しなかったが、文殊菩薩の夢のお告げによって、力寿の舌を切り陀羅尼山の峰に埋め、一堂を建てて文殊像を祀り、力寿山舌根寺と称した。そして世の無常を感じ、比叡山に登って出家し、名を寂照と改めた。のち宋に渡り学徳進んで円通大師とよばれたが、ついに日本に帰ることもなく彼の地で没した。それは宋の景祐元(1034)年のことである。このことは今から700年も昔の話で、寺は廃墟となり小堂を残すばかり。やがてこの歴史を知る人もなくなることだろうから、石に刻んで後世に伝える。』 と記されている。
舌根寺は、文殊山の西のふもとにあったと伝えられる。また山頂にはかつて堂がありここに文殊像が祀られていたが、江戸時代末頃に財賀寺に移されたという。

   豊川の歴史散歩:❺三河天平の里から財賀・萩の山あいを行く 平成25年10月発行より