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御津町商工会

⑰ 八幡社   (笹踊り)

172-1.jpg当社は建久2年(1191)に安達藤九郎盛長により、鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請されたと伝えます。かつて源氏の氏神として宇佐八幡宮から鶴岡に勧請されたように、古来弓矢の神として武人の尊崇を集めた八幡神は、一般的には応神天皇を主座とし神功皇后と仲哀天皇を併せて3神をさすとされます。
安達藤九郎は早く頼朝に従い、信任厚く、三河国の守護として在地中には、いわゆる三河七御堂を建立したとされます。七御堂には、東三河では相楽の養円寺、五井の長泉寺、雲谷の普門寺、鳳来寺の常行堂などが数えられ、長泉寺には藤九郎の墓(五輪塔)があります。
創建時には中村の北に鎖座し、明徳年中(1390~)に村落の移遷にともない西脇(東御馬北部)に遷座、さらに万治3年(1660)現地に遷されたとのことです。
寛政(1789~)ころ大納言基衡卿筆の社号額が掛けられていたと言いますが、伝存は未確認です。拝殿内には明治期の名古屋鎮台の絵馬や昭和の地芝居の奉額などが掲げられています。金的中奉額も、祭神にふさわしく多く残ります。
当社の祭事として古くから笹踊りが伝承されて来ましたが、それが東西部落の不和の一因となり、幕末のころ(一説に弘化3年1846)に当社のご神体を引馬神社に合祀する画策がめぐらされました。これを知った当社の神官波多野権太夫がひそかにご神体を敬円寺に預け、同寺住職の計らいによって一件は落着しましたが、この後も祭礼をめぐる紛糾を伝える文書が残います。
なお海元寺に伝わる『当邑略記録』によれば、安永6年(1777)に拝殿が焼失、翌年造営された由ですが、現在のについては未詳です。

笹踊り
「笹を手に持って踊る神事舞」というのがその一般的説明で、豊川水系の各所に伝わる中では吉田(現豊橋)の祇園祭のが有名であり、享和2年(1802)に実見した滝沢馬琴は、「大太鼓1人小太鼓2人、塗笠をいただき錦の陣羽織、小手当あり」と『羈旅漫録』に書き留めています。

八幡信仰
宇佐平野の馬城峯には古来、神の磐座(降臨所)を祀る信仰があり、これに弥生時代末期に渡来した朝鮮系の巫現信仰が加わって、法師が祈祷と医療を行う原始八幡信仰が豊前国に弘まりました。法師らは多くの幡に囲まれた祭場で託宣を行い、その託宣の神をヤハタ神と呼んだようです。
和銅5年(712)には応神天皇を八幡神として祀る八幡宮が創立され、天平20年(748)に東大寺守護のため手向山に八幡宮が勧請されました。弘仁14年(823)に神功皇后が併祀され、応神八幡信仰が定着します。貞観2年(860)平安京鎮守に石清水八幡が勧請され朝野の伯仰を集め、源氏は氏神と仰ぐようになり、義家は石清水社前で元服、八幡太郎を名乗り、武神の性格が一段と鮮明になりました。

       みと歴史散歩❹湊と引馬の里 平成12年2月発行より