忠勝寺の南方100m余りの所に、道路の真ん中に常夜灯が建っている辻があり、その東側に広い屋敷跡が続きますが、ここが羽田野敬雄(栄木)の生家の跡です。
生家の山本家は戦国武将の流れを汲む名門で、帰農後豪農であったばかりでなく、後年醸造業や商業も営み、かつ、多くの当主が西方村の庄屋を務めました。
三河における屈指の国学者として、幕末から明治初期にわたって活躍した羽田野敬雄は、寛政10年(1798)山本兵三郎茂義の四男として生まれました。21歳のとき渥美郡羽田村の羽田野上総敬道の養子となり、養家の後を継いで羽田八幡宮および湊町神明社の神主となり、28歳で本居大平に学び、その後さらに平田篤胤の門に入って研鑽を重ね、国学の普及に尽力しました。
嘉永元年(1848)に開設され、近代図書館の先駆と言われる羽田八幡宮文庫の創立に当たては、同志とともに発起人となって中心的な役割を果たしました。文庫の蔵書は和漢の書物が大半で一万巻を超えましたが、その多くは寄贈によるもので、著名な寄贈者に三条大納言實萬、水戸中納言斉昭、平田鎮胤、本居内遠、吉田藩主松平信古などがいます。
ここで勉学したり敬雄の家にかくまわれて国事に奔走した人に勤王家の山本速夫、国学者の福羽美静男爵、陸軍大将大久保春野、天誅組の北畠治房男爵、人斬り以蔵の岡田以蔵、ほかに藤森弘庵、井上頼圀、県勇記などの学者や志士がいますが、いずれも明治時代に活躍した有名人です。そして、彼自身も70歳余の高齢で京都皇学所御用係、同講官、豊橋藩皇学所教授等を務めました。
また『三河国古蹟考』『觸穢私考』『三河国養蚕由来記』など、多くの書物を著し、地方文化の向上などに寄与しました。勉学を好んだ少年期の逸話に「ある夜、盗賊か山本家をのぞくと、深夜まで子供が勉強していて忍び込むことができず、しかもそれが毎夜続いて遂に賊が音をあげ、侵入をあきらめた」との話が残っています。その敬雄も明治15年6月1日85歳で世を去りました。
なお、生家には14年2月から22年3月まで、西方郵便局が置かれ、敬雄の甥山本兵三郎茂啓が局長を務めました。
【山本家文書】西方の素封家である山本家も時を経て無住を余儀なくされ、家屋は平成10年2月に取り壊されました。その間都合3回にわたり計4,000余点の貴重な文献などが、山本家当主から町に寄贈されました。その内容は江戸時代の検地帳や宗門帳などの公文書をはじめ、郷土の歴史、道中記、当地を中心とした俳句社中や江戸雪門の俳書、浄瑠璃や謡曲本などの幅広い蔵書に加えて、敬雄直筆の短冊や書簡なども多数あり、また、家計や日記類に至るまで多様です。渡辺富秋文書(町指定文化財)
山本家文書のうちでも『引馬地理誌』と『三河国名所和歌集』および『算法撮要』は渡辺富秋字句室自筆の編著です。
みと歴史散歩:❶駅中心に 平成12年2月発行より