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御津町商工会

⑤総社

久保古墳をあとに姫街道を東ヘ150m進むと、右手にうっそうとした森が見えてくる。この森の西辺の小道を南に入りしばらく行くと、左手に総社が見えてくる。
総社とよばれる神社は日本の各地にあるが、その創立は10世紀頃とされている。当時地方では、都から各国(国は今の都道府県に相当する行政区分)に派遣された役人である国司がその国を治めていたが、国司に任命された者は、赴任当初に国内の主な神社(国内神名帳に記載されたもの)を巡拝する決まりがあった。これは国司にとって大変な仕事であったので、10世紀になると国庁(国司が政務を執り行う場所)の近くに国内の諸社をあつめて総社とし、これに参拝して巡拝にかえるようになったといわれる。総社の永和4(1378)年の棟札には、「奉建立総社58社大明神宮」と書かれている。この58社とは、三河国一宮である砥鹿神社及び、国府がある宝飯郡の神社を除いたものと推定される。その理由は、宝飯郡内の神社は国府に近く、参拝に手間がかからないためと考えられる。国司たちは三河の国に赴任すると、宝飯郡内の神社に参拝し、また総社の参拝を済ませることによって、国内諸社の巡拝を終えたことにしていたと思われる。
総社周辺では、国府の建物に使用された古瓦の出土が古くから知られているが、総社の建物の軒瓦(軒先を飾る文様のある瓦)には、付近で出土する古瓦と同じモチーフの文様が用いられている。

   豊川の歴史散歩:❺三河天平の里から財賀・萩の山あいを行く 平成25年10月発行より