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御津町商工会

⑱一色城跡

86-2.jpg大聖寺の北辺沿いの道を東へ100mほど行くと、駐車場内にこんもりとした土盛りがある。これは、永享11(1439)年に一色刑部少輔時家が築いたという一色城の土塁の一部であり、地籍図などを参考にすれば、この土塁の東側に東西80m、南北120mほどの城があったと考えられる。台地の端につくられた城で、前方に沖積低地を見渡すことができる。また西隣りの大聖寺境内にも土塁の痕跡がみられ、一色城と密接な関係を持った区画が存在した可能性もあり、大聖寺の前身となった仏堂のような施設があったのかもしれない。
城を築いたという一色刑部少輔時家について、『参河国聞書』には、次のように記されている。
「永享10年10月4日、鎌倉において上杉安房守憲実が謀反をおこし、一色宮内大輔直兼、同甥刑部少輔時家と戦った。鎌倉勢は敗れて直兼は討死、時家は三河の吉良俊氏のもとにのがれて来た。翌年、時家は宮嶋郷長山村に来て保障を築く。俗に呼んで一色殿という。」
一色城に時家が住むようになると、まわりに村ができ、それぞれ元一色、南一色、北一色と名づけられたという。その後、鍛冶職の人々が多く住むようになるにつれて、元一色が鍛冶村と改められ、鋳物師が多く集まり住んだ南一色、北一色は、南鉄屋、北鉄屋に改められた。
時家は、築城してから38年後の文明9(1477)年に家臣の波多野全慶に殺され、また全慶も、明応2(1493)年に一色家旧臣の牧野成時(古白)と灰野塚で戦って討死したとされる。以後この城は牧野氏の居城となり、牧野氏が牛久保城・今橋城と進出していく拠点となったのである。

    豊川の歴史散歩豊川の町から牛久保の町へ 平成25年10月発行より