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御津町商工会

④ 西方古塁跡

21.jpg戦国の有名な武将池田輝政が吉田城主となたのは天正18年(1590)でした。関ヶ原の役の勲功により慶長5年(1600)には姫路に移りましたが、彼が吉田に入城したとき、四囲の重要な地点に、有力な部将に命じて、拠点となる城塁を築かせました。西方もその一つで、ここには歴戦の勇士森寺政右衛門忠勝が配置されて築造に当たり、引続いてこの塁を守護しました。
慶長17年に松平忠利が吉田城主になると弟の忠貞がこの塁を守りました。その子忠高の代に1,200石の知行所を返上して、蔵米取りとなり江戸に移りました。
主のなくなった城塁は家老の永沢太郎左衛門がもらい受け、老齢のため帰農しましたが、時の代官鈴木八右衛門は「お前の永沢という姓は長沢松平家に失礼になるから変えよ」といって、自分の鈴木姓を与えました。これが奥山の鈴木家の始まりで、以後代々この塁の跡に住んでいます。
城塁は、東西330m、南北220mの長方形で、幕末の頃には鶴が飼われ、明治の中頃には土手に古木が茂り、趣のある老松も多く、狐が棲み、村人から油揚げなどをもらっていたそうです。鉄道が敷かれ汽車が走ると、狐はその音に驚いていっつの間にか退散したとのことです。塁を巡ていた高い土手と、深い水濠も明治の末頃には取り壊され、今は屋敷の一隅にわずかに残る木立と堀の一部が、遠い昔をしのばせています。

        みと歴史散歩❶駅中心に 平成12年2月発行より