昭和初期に、働く青年のための教育機関である、実業補習学校や青年訓練所などを統合しようとする機運が芽ばえ、それが次第に高まりを見せました。文部省もこれを受けて青年学校の新設を文政審議会に諮り、その答申に基ついて昭和10年4月1日青年学校令を制定公布しました。
これによって青年学校は、公私ともに設置が可能で、普通科、本科、研究科を置き、普通科には小学校尋常科卒業者を、本科には普通科修了者と小学校高等科卒業者を、研究科には本科卒業者を入学させるものとし、訓練、教授期間を普通科は2年、本科は男子5年、女子3年、研究科は1年を原則としました。
本町ではこの年、南北両尋常高等小学校にそれぞれ青年学校を併設して、御津南部、同北部青年学校と称しました。南部青年学校には本科に1部と2部を設け、1部に属した生徒は2年生まで全日制で、通常これを補習科と呼びました。在籍生徒は両校で男子150名、女子、54名、計204名通科は入学者がないため設置されず、女子の研究科は、後に専修科に改まりました。
富国強兵、国威宜揚を国是とした時代に誕生した青年学校は、軍事教練が重視され、軍歴豊な在郷軍人が指導員に任用されてその任に当たり、年1回実施される査閲は、最重要行事でした。査閲官は豊橋連隊区司令官で、帝国在郷軍人会宝飯郡連合分会長を始め多数の関係者が臨席して、極めて厳粛に執行され、講評にはかたずを呑んで耳を傾けました。
14年に青年学校令が改正されて義務制が導入されました。その対象は満12歳から19歳までの男子とされ、この年の普通科1年入学者から適用し逐年その年限を延長して2年度には、本科5年までが義務となり、軍事教練が課せられる画期的な制度でした。
16年12月太平洋戦争が起こり、戦局は激化の一途をたどる中、かねてからの懸案とされた青年学校の統合が決まり、19年3月末日で南北両青年学校を廃止して、4月1日から御津青年学校となり、これを南部国民学校に置きました。校長も新制中学が誕生するまで専任となり、軍事教練の強化と生産増強の支援に重点を置いて、兵器増産への動員、糧秣廠ヘの出動、食糧増産活動等が行われました。
20年8月、終戦により、これらの活動に終止符が打たれ、それまで使用していた銃、剣、その他武具に類するものはすべて、御津山中に埋めて処分されたと伝えられます。
終戦を機に、わが国は軍国主義から民主平和を理念とする体制に移行して、多くの制度が抜本的に改まりました。青年学校はその性格上存続は困難との見通しでしたが、当面新しい時代に即応するため、教育内容を測新して修業年限の変更と、新教育の具現に意を用いました。
22年に新制中学が誕生し新校舎が建設されて同校が泙野字山下に移り、本校も同地に移転しました。戦後の生徒の推移を見ると、終戦の直後は、男子生徒はほとんど登校せず退学し、21年度は男子生徒の激減が目立ち、22年度は女子生徒だけとなり、23年3月解散式を挙げその歴史を閉じました。
みと歴史散歩:❶駅中心に 平成12年2月発行より