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御津町商工会

⑧御油の追分

大社神社をあとに東海道を300m北西に進むと、交差点の北側に常夜灯と道標がある(もとは交差点東側にあった)。ここは東海道と本坂通(姫街道)の追分(道が分岐するところ)である。東海道も本坂通もかつての街道風情は失われてしまったが、この秋葉山の常夜灯及び「秋葉山大権現道」の道標は、この場所がかつて両街道の追分であったことをしのばせる。道標は明治16(1883)年に、遠江(静岡県)森の大国屋源五郎、御池の海老屋安左衛門、岡崎の鍵屋善四郎により建てられたものである。近くには豊川稲荷への道標も残されている。

東海道
関ヶ原の合戦で勝利を収めた徳川家康は、慶長6(1601)年に全国支配のため、江戸と各地を結ぶ5つの街道(東海道・日光街道・奥州街道・中山道・甲州街道)を整備した。東海道はその一つで、江戸日本橋から京都三条大橋を結ぶ街道であり、その間には53の宿場町が設けられた(東海道五十三次)。市内においては、小坂井から長沢にかけての約14㎞にわたって東海道が通り、御油と赤坂は宿場町として栄えていた。慶長9年には、街道に一里塚(道程の目安に、約4㎞ごとに街道の両側に設けられた土盛りで、その上に榎や松などの樹木を植えた)や並木の整備が行われ、その後も江戸と京都を結ぶ大動脈として幕府による管理が行われた。

本坂通(姫街道)
東海道を御油宿から別れ浜名湖の北岸を通り、浜松宿(浜松市)及び見付宿(磐田市)で東海道に合流する街道を本坂通という。古代・中世においても東海道の脇往還として機能しており、特に明応7(1498)年の大地震により浜名湖が海とつながってからは、本坂の利用が多くなったとされる。また、江戸時代におても大地震による津波で新居(湖西市)・舞坂(浜松市)宿間の今切渡船が大きな被害を受けると、本坂通の利者が増加した。その街道名は、三河国と遠江国の境で‘る本坂峠を越えることに由来し、また別称で姫街道とよばれ、東海道の新居・舞坂宿間の今切渡船の危険をけるために、女性の旅人が利用したためともいわれるが、その理由は定かでない。本坂通には嵩山(豊橋市)三ケ日(浜松市)・気賀(浜松市)・市野(浜松市)の4宿が置かれ、気賀には関所も設けられた。御油宿から嵩山宿までは4里4町(約17.6㎞)あり、当古村には豊川の渡船場があった。

    豊川の歴史散歩:❹東海道沿いの町を行く 平成25年10月発行より