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御津町商工会

⑥ 『広幡神社』

101.pngもと八幡宮と称していましたが明治以後広幡神社と改称しています。松本清張氏によれば広幡とは、広い海で幡は朝鮮語PTA(海の意)から出ており朝鮮海峡を渡来した神または神功皇后にまつわる海峡といった意味をふくみ、八幡宮に対し広幡と冠したのだと思います。この神社の起源ははっきりしませんが、管領の斯波氏が西方の地頭であったころ豪族永沢太郎左衛門が応永年間(1394-)に社殿を修理したと伝えられています。しかし鈴木家系譜をみるにそのことは記してありません。なおまた、慶長17年(1612)に吉田城主となった松平主殿頭忠利の弟の子長三郎忠高(1200石)が西方を領したときその臣永沢太郎左衛門茂勝をして治めさせたが、そのおり神社を造営したともいわれます。太郎左衛門はのちに主君より西方古塁をもらい自分の屋敷とし帰農したのですが長沢松平氏にはばかりありとして代官鈴木氏より鈴木の姓をもらったのですが、さて西方は鉄道開通前の戸数はわずかに73戸で大体今の郷中というあたりにありました。古塁は西方の住人から奥山と通称されたほど樹林につつまれ氏神の森や東光寺の樹立ちと連なり淋しいところでした。山本種次の漢詩に「東光寺内官員に貸す。占め得たり謝料月弐円細君頻りに嫌う寂寛の地。憐れむべし昨今大草に遷る。」というのがありますが官員様が月2円の家賃で入居し寺は思わぬ収入で喜んでいたが淋しさにまけて大草へ引越して行ったということですが、今とは雲泥の相違です。お内陣の土塀は吉田城の遺構であって維新のころ藩主の側室であった西方住の婦人の縁で払下げをうけたとのことです。境内にある護穀神社は天明5年(1685)の西方村差出張には「護穀大明神1社、是は宝暦中(1651-)殿様(大岡越前守)より被下置勧請仕候毎年2月15日御祭仕候尤も御神酒代として銀五匁(60匁で1両)ツ、年々従殿様被下置候」とあり、名奉行大岡越前守は深く稲荷様を信じておりこの文をみれば領内で稲荷社のない村にはこれを祭るよう奨励したように思われます。商売繫盛の神また越前守にまつわる防犯の神として五(護)穀社(稲荷様のこと)が奉斎されてあることは西方にとり結構なことと存じます。

      広報みと❻文化財(神社 昭和56年12月15日号より