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御津町商工会

③ 『素盞鳴神社』

98.png当社は、万葉集にうたわれた安礼の崎の近く下佐脇新田字砂山33にご鎮座まします。
ご祭神は天照大神の御弟の素盞鳴命です。むかしは、仏教盛んであったころ印度の神仏を 我国の神々と同一なりとする両部習合の説が行われ、かたくなに神道を奉ずる我国人の心に仏教を融けこませる方便が考えられ、深く大衆にうけられました。印度の祇園精舎という寺の守護神である牛頭天王を素盞鳴命にあてたため天王様とか牛頭天王といわれ、防疫の神として知られ一般にはなじみ深く、この旧宝飯郡(豊川、蒲郡市を含)地方でも末社まで合わせますと91社の多きを数えます。
今から380年前、下佐脇村の次郎太夫(白井氏)という人が夢のお告げによって、ある日海で塩浜の仕事をしていたところ津島天王社のお葭が流れついているのを発見し恐縮してこれを近くの小高いところにおまつり申し上げたのがこの神社の起こりです。そのとき次郎太夫は慶長6年(1601)8月18日記念のためお浜木として松を植えました。ときに25歳であったといいます。このことは白井家蔵寛延二年(1749)の文書に出ています。そのため、下佐脇の庄屋は次のような証文をその子孫に交付しお宮の管理を委任しています。
証故一札
一、字洗出天王社 壱宇 右者往不より其方へ支配致来候所珉蔵新田開起ニ付弥相改め永く子孫に至迄其方支配可到者也。享和2戌壬年月(1802)名主清右衛門、五郎太夫。とあって宛名は次郎太夫としてあります。
新田は幕府代官の命により珉蔵という者が自己資金の外碧海郡棚尾村文平という人から資金協力を得て明和8年(1771)より開発が進められ文政年(1818-)には移住者があられ当社は氏神としてあがめられましたが管理は白井氏の手に属し、明治になって萬次郎氏などカギを預っていたとのことですが長男竜蔵氏が東京へ転出に伴い何時かカギは神社へ返され現在は弟熊蔵氏の後継者白井元氏がこの慣習をうけつぎ、その例祭には必ず招待をうけて参拝されることになっています。境内には百年以上の巨松20本がそびえ崇厳の気にみちています。

      広報みと❻文化財(神社 昭和56年9月15日号より