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御津町商工会

⑰砥鹿神社里宮

273-2.jpg豊川市民俗資料館を出て国道151号を南西に向かい1.2㎞進むと、砥鹿神社前の信号交差点がある。ここを東に入り250m行くと砥鹿神社入り口正面に出る。
砥鹿神社は三河国の一宮として広く崇敬を受けている神社である。一宮・ニ宮・三宮など、国ごとに神社に格を付けるのは平安時代末のことのようで、砥鹿神社は鎌倉時代に作られた『三河国神明名帳』にも三河の神社の筆頭に位置付けられており、以来三河国一宮として崇められてきた。そのはじまりについてはよく分からないが、『日本文徳天皇実録』(文徳天皇の治世であった嘉祥3(850)年から天安2(858)年までの歴史書)の嘉祥3年の記事に砥鹿神社が神階を授与されたとあるので、少なくともこの時期には存在していたことが分かる。砥鹿神社の草創については、以下のとおり縁起に伝えられている。
文武天皇の大宝年中(701~704)に天皇が病気になられ、夢のおつげによって三河国の設楽郡煙巌山(鳳来寺山)に住む勝岳仙人を迎えに、勅使として草鹿砥公宣卿が遣わされた。その途中、公宣卿が本宮山中で道に迷っていると老翁が現れて道を教え、童子に道案内をさせた。煙巌山にたどり着いた公宜卿は、あまり気の進まない勝岳仙人を膜願して上洛させ、加持修法を行うと天皇の病気は平癒し、仙人は煙厳山に帰って鳳来寺を建立した。
後に公宣卿は、天皇に山中で逢った不思議な老翁の事を話し、再度三河へ下向することとなった。公宣卿は本宮山で老翁と再会を果たし、老翁の望みを聞いて山麓に宮居を建てることにした。この時老翁は着衣の一部を抜き取り、前を流れている川に投げ入れたので、公宣卿はこれを追って山を下り、山麓辰巳の方、清水の流れる所で衣を取り上げて、七重棚を作り七重の注連をして宮居を造った。この宮居を造った所が砥鹿神社里宮である。
本宮山に対する山岳崇拝(奥宮)と日常生活に身近な水に対する信仰(里宮)とが合わさり、砥鹿神社崇拝に至ったと考えられる。

例祭
毎年、5月3・4・5日に行われる。祭りの中心は、神幸祭と騎乗式が行われる5月4日である。274-1.jpg
3日は午後から例祭が無事行われることを祈る宵宮祭や流鏑馬試乗式などが行われる。4日は午後2時から神幸祭が始められる。本殿において宮司等の神職により神霊が神輿に遷され、神輿を中心に神職・氏子・騎児等が連なって御旅所(境内にある八束穂神社)に向かう。御旅所での儀式を終えると、再び神輿に従い行列をつくって本社に帰る。この神幸祭が終わると、騎乗式が始められる。この騎乗式では12頭の馬に少年騎児が乗り、右手に鞭、左手に布引を持って馬場を数往復駆ける。かつては、馬場の両側の柵に集まった見物客が競って布引を取り、それを魔除けとするのが通例であったが、現在では危険であるため布引を取ることはできない。馬駆けが終了すると境内にある津守社に参拝し騎乗式は終わる。最終日の5日には、後鎮祭、子どもの剣道・弓道大会、書道・絵画作品の表彰、稚児行列などが行われ、三日間の例祭は幕を閉じる。

田遊祭 【市指定無形民俗文化財】
毎年1月3日の午後2時半から拝殿正面の西側で行われ、氏子から選ばれた13人の奉仕者によって、稲作の過程が模擬的に演じられる。五穀豊穣を祈願するもので、そのはじまりは中世に遡ると考えられる。野良着姿の田人らの即興でのやりとりが、見学者の笑いを誘い、正月の境内は一段とにぎわう。

火舞祭 【市指定無形民俗文化財】
2月7日の夕方(午後6時)に、境内にある末社の八束穂神社前広場で行われる神職と巫女による神事で、伶人(雅楽を奏でる楽隊)による音楽が添えられる。ヒノキの臼でもみ起こした火を巫女の持つ「花」とよぶ松明に移して行う「火鑽神事」を中心とし、火災を逃れる祈願が込められている。

砥鹿神社のケヤキ 【県指定天然記念物】276-1.jpg
境内東側の河岸段丘の斜面にあり、県下有数のケヤキの巨木として知られている。樹齢は600年と推定されており、斜面下の道路から見た幹の太さは壮観である。樹冠は境内からも仰ぎ見ることができ、社叢の中でもひときわ目立つ存在である

砥鹿神社西参道石鳥居【 市指定有形文化財】
国道に面して建つこの石鳥居は、もとは旧市田村(現諏訪西町2丁目)にあったもので、砥鹿神社奥宮の遥拝所として天保13(1842)年に建てられたものである。昭和20(1945)年の豊川海軍工廠の空襲で被災し、昭和31(1956)年に修理を機に現在地に移された。明神鳥居とよばれる形式で、石材は花崗岩である。鳥居に刻まれた銘文から、岡崎藩士の長尾興達が寄進したことなど、建立の詳しい経緯を知ることができる。また、石鳥居をよく見ると、所々に欠けている箇所があるが、これは豊川海軍工廠の空襲で受けた被弾痕である。

田峰の銅鐸 【県指定有形文化財】(見学できません)
この銅鐸は、天保2(1831)年に北設楽郡設楽町田峰で出土したもので、後に砥鹿神社に奉納されたものである。高さは35.6㎝あり、弥生時代中期末頃のものと推定され、保存状態が大変良好である。この銅鐸の特徴は、三遠式銅鐸とよばれる形式の初現期の特徴を有することにあり、三遠式銅鐸の研究には欠かせない資料である。

    豊川の歴史散歩:❻本宮山麓を行く 平成25年10月発行より