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御津町商工会

⑩牧野城跡

35-1.jpg松原用水にかかる谷川橋より、用水路沿いに下流へ進み、500m先を東に入る。最初の交差点を南にまがり、少し行くと牧野城跡がある。
牧野城は、戦国時代の東三河で中心的な役割を果たした武将牧野一族が、最初に築いたとされる城である。『牛窪密談記』(中神善九郎行忠が、元禄14(1701)年に『牛窪記』をもとに著した東三河の郷土史料)によれば応永年間(1394~1428年)に将軍足利義持の命により、田内(田口)伝蔵左衛門成富が、四国の讃岐から三河国中条郷牧野村に移り、牧野城を築いたとされる。牧野一族の家系については、江戸時代に作成されたものがいくつか知られるが、それぞれ内容が異なっており、田内伝蔵左衛門成富という人物名も、いずれの系図にもみられないため、牧野城の由来については分からないことが多い。現在、城跡には士塁の一部が残っている。

牧野城跡の発掘調査36-2.jpg
平成の初め頃まで牧野城跡は、西側の土塁と堀が残存していたが、城跡を含む周辺地域で行われた圃場整備事業により、その一部を残し失われた。工事に先立ち、平成4・5年に発掘調査が実施され、その結果、城の規模•平面形は南北約102m、東西は北辺で約72m、南辺で約84mのやや台形状の長方形であることが分かった。その南と東辺では、城の入口と考えられる遺構が確認された。また、調査で出土した土器の特徴などから、城の存続年代から15世紀初めから16世紀初頭と考えられ、『牛窪密談記』に記される応永年間の築城及び、今橋城築城に伴う16世紀初めの廃城とほぼ一致することが分かった。
発掘調査で明らかになったように、城の平面形は基本的に長方形状の―つの曲輪であるが、江戸時代の絵図(「豊川村崖境裁許絵図」豊川進雄神社蔵)に城の西側に1つの区画らしきものが描かれていることや、東側には丁畑という字名があり、丁が城と読みが似ることから、城の東西にも関連する施設があった可能性もある。また、城跡の南西には横町の字名があるが、この地名は中世城郭や近世城下町にみられる地名であり、この辺りに家臣や職能民らが居住していた可能性も考えられる。

   ​​​​​​​ 豊川の歴史散歩豊川沿いを行く 平成25年10月発行より