武田信玄は天下に号令しようとして、京都に向い西上の志を有し、その手始めとして隣国北条氏のほか常陸の佐竹氏、安房の里見氏などと盟約を結んで後顧の憂いをたち、一方強敵の上杉謙信に対しては加賀、越中の一向宗徒を煽動して謙信に抵抗させるなど万全の策を講じた上で、元亀3年(1572)10月3日兵2万余を率いて甲府を発し、信州飯田に進み同国と遠州の国境にある青崩峠を経て、秋葉路を通り遠州に侵入してきましたが、このとき、武田の別動軍として山県三郎兵衛昌景は9月29日甲府を発し、兵5千をもって東三河に進み山方三方衆の兵を合わせて遠州に到着し、本隊と合流して12月19日近くの二俣城を攻略したのち、刑部、井伊谷を経て東三河に進出しようとしましたが、浜松城の徳川家康はこれを阻止せんとして遂に12月22日の夕方、有名な三方原の戦いが開始されたのですがこれは家康側の大敗となりました。
その後、信玄は刑部村に転じて兵馬の休養をはかり、そのまま元亀4年(天正元年)の春を迎えたのです。そして正月11日には三河に入り野田城をおびやかすことになりました。これより先、山県三郎兵衛は威力偵察のため先鋒として再び東三河に侵入し、大恩寺付近に陣をしきました。そのとき、将兵への布告として寺を大切にするようとの禁制を紙に書いて寺院へ出しました(写真)。
この文をわかり易く読み下し文にしますと、
武田朱印 高札
「当手甲乙軍勢、彼の寺中において濫妨狼籍す可からず。若し、此の旨に背く者は厳科に行わるる可き者なり。仍って件の如し。元亀4年正月3日、山県三郎右兵衛尉、之を奉ず。」
すなわち、「味方の甲乙、どの部隊もこの大恩寺においては決して乱暴狼藉の行為があってはならぬ。もし、この主旨に違反する者があれば厳重に処罰されるであろう。以上のとおりである」ということです。寺はこれを元として同様の文面を幾つかに複写し、主要の箇所に貼り出したと思われます。
これを見れば戦国時代の生々しい息吹きが感ぜられてなつかしくさらにまたこれは、文化財を愛護した当時の武将たちの心掛けがしのばれるよい史料というべきではないでしょうか。
広報みと:昭和62年3月15日号より